かちかが生きてる

日記を書くよ

2023.5.11 自己愛があるからこそ

 

私はTwitterをやっているのだけど、前日の夜のツイートを翌朝に見るたびにまったくの別人を見ているような気分になる。

 

朝と夜のテンションは恐らく誰だって違うものだけれど、私はそれが本当に顕著だと思う。

テンション、と言うのも間違いかもしれない。夜でも朝でも私は常にまぁまぁフラットだし、気分がアガッているから夜中に様々なツイートをしている訳でもない。

じゃあ何で、と言われるとわからない。何だか別人のようなのだ。朝に夜の自分を見ると、単純に「ノリが違う。この人とは仲良くなれないな」と思う。具体的に何が異なるのかはまだ言語化できていない。

 

だって、何が違っているのか、ツイートの内容を見ても全然わからないのだ。何となく、ノリが違う。でもやっぱり自分だから、考え方や思想は同じで、でもどうしても好きになれない。

だから私がまず起きてやることは「夜中の自分の監視」だ。変なことを言っていないか、本当にこのツイートは残しておいても良いのか。気になるものは消して、最終的に夜の私の呟きは半分ほどの量になっている。

 

 

ふと、夜の私は「自分をよく見せたい」という策略を持たないのではないか、と思った。

私はいつだって人によく見られたくて、素敵な自分だけをお出ししたいと思っている。見栄っ張りの完璧主義(そんな良いものでもなく、プライドが無駄に高いナルシストとも言える)で、それはSNSの挙動に関してもそう。

 

夜中の私は一日働いて、疲れて、ただふわふわと思ったことを垂れ流すだけのアカウントになる。

取り繕わない自分がそこにいて、だからこそしっかり寝て休んで、朝になってそんな自分を見た時に無神経さや洗練されていなさが目につくのかもしれない。

だとしたら、私は飾らない自分のことはあんまり好きではないのかもしれない。私は私のことが好きだけど、それは朝の私であって夜の私ではない。取り繕えなくなった自分は重荷で、高い高いプライドを支えるお供にするには些か邪魔になる自分なのだ。

 

私はおそらく、自己愛をもって自分を嫌っている。

2023.5.6 家が2つあったっていい

東京に帰ってきた。

 

東京の街並みを見ると「ああ、帰ってきたな」という感じがして、自分が「東京の人」になった自覚のようなものがふつふつと湧いてくる。

 

1つ前の日記を書いた時、書いた後は悲しくて寂しくてぐちょぐちょに泣いたのだけど、それ以来は特に泣いていない。

経験則上、悲しいことは時間が解決してくれるばかりでいくら泣いても出て行ってはくれない、とばかり思っていたけれど、涙が洗い流してくれる悲しさもあるのだと今更知った。

だから今も、特に悲しくはないし、強いて言うなら実家の猫が恋しくてたまらないくらいだろうか。

 

電車に揺られて考えていたことと言えば、「雪国の故郷と東京の町を、どちらも家と定めてしまおう」ということだった。

住んでいなくても、自分の部屋がなくても(私の部屋は現在幼い妹たちが使っている)、「実家」は「家」で「帰る場所」に変わりは無いのだ。家は何個あっても良い。

 

「家」と定めるのは恐らく自分が戸籍を置いていた家屋である必要すら無くて、親友の家だとか、馴染みの店だとか、そういうものを魂の家として拠り所にする人は沢山いるのだと思う。

 

私はそのあたり、はっきり分けすぎたのではないか、と思う。

私は妙なところで真面目で潔癖なところがあり、ここ最近はそういった性質が顕著だった。新生活に向けて、「大人になろう」「実のある生活をしよう」と躍起になっていた気がする。

家は何個あってもいいし、大人だってそう立派なものじゃない。母が私が家を出る日に言った、「かちかは真面目だから。全部ほどほどに頑張るんだよ」という言葉の本当の意味がわかった気がする。

2023.5.4 大人になるのは、こわい

上京して一ヶ月と少し、初めて実家に帰省した。

 

ちょっと早すぎるんじゃないの、とも思うけれど。私は一人東京で過ごす娘をかなり心配しているらしい母親のために、新幹線で数時間揺られることになった。

私の実家は東北の田舎にある。新幹線の車窓から外を眺め、故郷へ近付くごとに建造物の背が低くなっていくのが愉快だった。

林を抜けて、森を抜けて、住宅地、田んぼ、田んぼ、田んぼ…、

ふと時計を見たらもうすぐで駅へ着くらしい。私が今日目的地としていたのは大学時代に使っていたそこそこ大きな駅だった。街もまぁ、県内では一番栄えている。その駅に近付いている筈なのに、えっ、あれっ。なのにこんなに田んぼまみれなんですか。ああ、と思っている間に市街地に入って、あれよあれよと言う間に見慣れたホームへ降り立っていた。

私の通っていた駅はここまで山が近かったのか。ちょっと、愕然とした。

 

それから電車に乗り換えて、そうしてさらに田舎へ、田舎へ進んで。

 

実家を訪れて、私は強烈なノスタルジーに苛まれた。たかだか一ヶ月と少し離れていただけで大袈裟な、と思われるかもしれないが、「ここは既に私の帰る場所ではない」「以前のようにこの家でだらだらと母親の作る夕飯を待つような生活には戻れないのだ」という自覚がふつふつと湧いて、何だか悲しくなったのだ。

見慣れた家、ほんの少し前まで暮らしていた家なのにどこか見慣れない「そこ」は、もう私の実家でありながら私の居場所ではなくなっていた。

手馴れた所作で冷蔵庫から炭酸水を取り出す時も、何だか他人の家を勝手に漁っているような感覚に苛まれた。不思議だ。不思議な感覚だった。

 

私は元来、終わりというものが悲しくて悲しくて仕方の無い人だった。

人の死、ペットの死、引越し、進学、それら全てに私は恐らく他人より多くの涙をにっそり流した。ひっそりと、だ。だって、私にそんな繊細な感受性があるのだと知られたくなかった。私が寂しいことを、悲しいことを、誰にも知られたくなかった。

 

小学生になると同時に引越しをした際は、以前の家のある地域を通りがかり「どこか行きたいところはある?」と聞かれるたびに「前の家を見たい」とせがんだ。

高校生になって母親が再婚、妊娠し引越しをした際は、通学路として通る位置にある以前の我が家の開かない扉のドアノブを一度捻って、そして帰る、といった日々をしばらく続けていた。

だから、「去った家」で生活が今も尚続いている、というのが少し新鮮だった。愛着のある我が家、去らねばならない我が家に再び入ることができ、そこでは見慣れた生活をいつでも見ることができる。そういう現状は、もっと嬉しいものだと思っていた。これはこれで寂しいのだと、初めて知った。

 

これは疎外感ではないと思う。「親の庇護下」でいられる「実家」に居場所をなくしたというのはきっと私が大人になったということで、一人で生きていけるようになったということだから。

いやだなぁ、と思う。大学四年生の一年間を一生繰り返していたかった。単位をほとんど取り切って、必修科目とゼミだけを行いながら細々と小説を書いて、ネットの友達とネットで遊んで、ずっとぬくぬくと家にいる。

 

実家にいた時は、ずっと何かに「守られている」ような感覚があって、無敵だった。

家を出る前、母が冗談めかして言った、「これからママは誰と今日あったことお喋りすればいいの」という言葉が離れてくれない。

ずっと、母親は私なんかよりもずっとずっと先を行く大人なのだと思っていた。母親はとうの昔から、私のことを「対等な話し相手」だと認識していたというのに。それくらい、私は大人になってしまっていた。母親に、とっくのとうに追いついていたというのに。

 

大人になるのは、こわい。もっと、ずっと、こわい、かなしい、つらいと泣き縋っても、きっと何も言わずに抱き締めてくれる人がすぐ側にいてほしい。そんなことは口が裂けてもできやしないのだけど、それでも、あの人ならきっとそうしてくれる、と無条件に愛を信頼できる人がいることを。そんな人の隣で生きられないことが、こわくて仕方がない。

2023.5.1 エッセイって

エッセイが好きだ。

文章でも漫画でも好きで、ちょうど昨日買った「北欧こじらせ日記」も好きだった。どうやら一冊目を飛ばして買ってしまったらしい、けれど面白い。他人の人生、どこから読んでも面白いから凄いな。

同著者の出版物は他にもあるようで、早速買ってみようかしら、なんて気になっている。

 

フィンランド。私もちょっとだけ憧れがある。

写真で見る白夜の森やかわいいセカンドストア、あとは何を置いても雪景色。

私の故郷は雪深い東北だけれど、それとはまた違う、写真で見るフィンランドの冬にあるのは、"あったかい雪"だと思った。

 

話を戻して。

私はエッセイが好きだ。人の生活を見るのも好きだし、人が普段考えていることを知るのも好きだ。

前者を知りたい時は漫画を、後者を知りたい時は文章を読むようにしている。

最近ではどちらにも実際の写真が添えられていることも多くて、それがとても嬉しい。

 

そういえば、私はエッセイを書くのも好きだった。

私は大学で小説を書く勉強などをしていたので、たまにエッセイを書く課題なんてものも出た。

その時私は幼い頃叔母の葬儀に出た時のことを書いた。それだけ書くと陰鬱なテーマだと思うけれど、実際のところそうでもなかった。

「お葬式のために埼玉に行くよ」と言われて、まだ小学校にも通っていない私は県内にある別の叔母が住んでいる地域のことを「埼玉」なのだと認識して、長い長いドライブ中「前はあんなにすぐ着いたのに何でまだ着かないんだろう」なんて考えていたこととか。

遠い遠い親戚の同い年の女の子にいじめられて、クーピーを折られてしまったこととか。

その女の子にはどうやら罰が当たって、叔母の住んでいた家の窓ガラスを割ってしこたま怒られていたこととか。

曇り空の下読経を聴きながら、母から渡された数珠を順繰り数えて暇を潰していたこととか。

そういう、「幼い私」のフィルターをかけた叔母の葬儀は、そんなにどんよりとしたものではなかったように思う。薄暗くはあったけれど。もちろん、鮮やかなものでは決してなくて、でも、今同じ場所にいたら感じ取れなかった、灰色にちかちか輝く大事なものが沢山あったように思う。

 

(この場合は過去の自分自身だけれど)エッセイは自分では絶対に考えの及ばない場所にまで連れて行ってくれるから好きだ。

エッセイは思いがけずその人の深いところをこっそり見せてくれるから、びっくりする。そして何だか、遠い遠い場所に文通相手が出来たような気になる。実際は、一方通行なのだけど。

2023.4.26 中二病とかじゃなくて

人間は本当は人を殺したい。

「ただ殺したかったから殺した」という殺人鬼を頭がおかしい、と糾弾しつつ、実はみんな特に理由もなく「人を殺してみたい」みたいな時期があった。

 

という話を聞いたことがある。

 

 

だから、本当に問うべきなのは「何故殺人に踏み切ったか」ではなく「何故みんな殺人に踏み切らないか」なのだと。


もしそうなら良いなと思う。私も実際そんな時期があって、堪らなくて、変なところで真面目なのでしっかり悩んだ。私もいつか「踏み切った」側になってしまうのではないか、と結構心配した。


結論としては、そういった欲求はいつしか消えていた。

単なる若気の至り、もっと言うなら中二病の一種なのかもしれないな、と思う反面、そう茶化して済ませて良いものではないような気がするのだ。

 

例えば、無駄にグロテスクで血のたくさん流れる絵を描く、そういう中二病の発露の仕方もある。サイコパス気取りとも近いが当たらずとも遠からず。どちらもひっくるめて、「人と違う人間になりたい」という望みの方向性が残虐性に振れたのだと思うけど。

そういうのとは違うんじゃないのかな、と思う。

 

みんなそうだったというのなら。

思い留まったみんなが思い留まれなかった同胞たちを蔑むのは、おぞましいからではなく、その自制心のなさへ冷たい言葉を投げかけているのかもしれない。

私は我慢したぞ。

そうしていつしかそんな悪心を抱かなくなったぞ。

お前は何だ。

芽生えたそれを育てて育てて、ついに踏み切ってしまった。

お前は自制心のない奴だ。

 

なんて。

2023.4.19 五年前の日記

五年くらい前につけていた日記を読み返した。

その頃はとてもつらくて、心がしんどかった時期だ。

学校に行くのがつらくて、適当な理由をでっち上げて早退したり、そもそも学校にも行けず朝からずっと駅のトイレでスマホをいじったりしていた。

 

当時の私は陰鬱で、卑屈で、いつも死ぬことを考えていた。悲しくて寂しくて、その癖誰にもそのことを教えなかった。
とてもとても、知られたくなかった。私が寂しいこと、悲しいこと、そういうことを。声を殺すように泣く癖がついた。ずっと、ひっそりと一人でどこか遠くへ行きたいと思っていた。

 

それから時が経って、気が付いたらとっても元気になっていた。
毎日ちゃんと会社に行っている。友人も、少ないけれどまぁ、いる。死にたいなんて思わなくなった。
五年くらい経つと人は変わる。

 

当時の私は日記に「こんなマイナス思考を未来の私が見たら笑うかもしれない」と書いていた。そんなことないよ、と思った。
少しずつ回復してきた時期の日記には、「以前(上記)と書いたけど、そんなことないんじゃないかと思う」と書いていた。そうだぞ。

2023.4.16 アイドルに恋をすること

私は「アイドルを推している人」が大好きかもしれない。

 

アイドルはかわいい。かわいくて、かっこよくて、とびきり素敵でかわいい。

でも、そんなアイドルを推すファンも実は素敵なんじゃなかろうか。

 

ちなみに、この「ファン」はいわゆる「いいファン」を指している。「やなファン」も、まぁ、いる。世の中には。

 

 

私は特段アイドルに詳しくないし、この前有名芸能人の名前当てクイズを行ったら正答率0%だった。

だからほとんど偏見なのだけれど、アイドルがびっくりするほどきらきらしていてまばゆいものだということは知っている。

 

ファンがアイドルに対して抱く感情はよく恋と形容されるけれど、その実「振り向いて欲しい」とかでは、案外ない。「認知されたくないファン」というのは結構いるし、彼らが望むのは単純に推しの幸福だ。

例えば、「誰よりも幸せでいて欲しい」「笑顔でいて欲しい」「おいしいご飯を食べて、たくさん遊んで、ゆっくり気の済むまで寝て欲しい」。そういう人が多いように思う。傍から見て、だけれど。

それって、これ以上ない愛じゃないかと思う。

人が、人を強く強く愛し、幸福を願う様はそれもまたまばゆいものだと思う。

 

私にきみを愛させてくれてありがとう。

私はあなたが大好きだよ。

どうか幸せでいてね。

きみの幸せのほんの、砂粒のひとかけらだけでもいいから与えられたらうれしい。

私の知らないところでも幸せでいてほしい。

 

「あなたが好き!」ってすごい。

以前、ゲームでアイドルを推す女の子が「人を好きになるのがこんなに幸せなことだってあなたが教えてくれたんだよ(意訳)」といったことを言っていて、それが何だか大好きだった。

大好きで大好きで仕方なくて、あなたを想うだけで毎日が楽しくなって、あなたに幸せにしてもらったから、「私」はあなたにも溢れんばかりの幸せを貰って欲しい、という愛情の形は、素敵なものだと私は思う。

 

 

私もいちおう「推し」はいた。

私の応援も、少しくらいはそんな素敵なものだったらいいな、と思っている。