かちかが生きてる

日記を書くよ

2024.2.19 生きてて偉いがうざい

 

 

最近精神の調子も肉体の調子も悪くて、高校生の時ぶりに心療内科へ行ってみた。

 

最近、大層調子が悪かった。

朝は異様にだるくて、夜は中々眠れなくて、休日は丸一日寝ていて、外出する趣味は全部丸潰れ。家の中でできる趣味ならできるかと思えば全然できないし、食事も全然おいしくないし、皿は溜まりっぱなし。

それなりに悪くない一人暮らしを一年近く続けられていた私にとっては大打撃で、ついでに言えば職場での信頼も大打撃だ。

これはまずい、と思ってとうとう心療内科へ駆け込んだ。

 

結果として、私は心療内科の先生の前でずびずび泣いてしまった。

思えば、ここ一年ほど、しんどかったのに、しんどいから、と自分のために泣いたことは一度も無かったように思う。

泣きたかったが泣けなかったのだ。先生には、環境が変わったことによる過剰適応だと診断を受けた。

 

新しい環境で、「ちゃんとしよう」とし過ぎたのだと。一人で地に足を付けて頑張っていこう、できるだけちゃんと、ちゃんと、頼らず。そう思って、過剰に環境に合わせて自分を変える過程で神経を張り詰め、疲れてしまったのだと。

 

貴方は気丈に振舞っているように見える、と言われた。頑張った自分を認めてやっていいと思う、と言われた。

そして、つい自然と涙が出た。しゃくり上げて止められないような泣き方はいつぶりだったろうか。

 

自分で「当たり前」と課してきた環境への適応を、本当は無理をしていたということへの自覚、そしてそれを他人から教えて貰えたことへの安堵。

私は認めてもらいたかったのだろうか。

正直、無茶している自覚はなかった。

 

自分はしんどいのだと、自分は大変なことをやっているのだと、自分は偉いのだと、認めることは重要なのかもしれない。

 

思えば、私は自分への期待値が高いのだ。もうちょっとできると信じているし、もうちょっとやれるやつだと思っている。

でもそんなことはないし、私はあんまりできないやつだし、でも、それでもとびきり頑張っているらしい。

 

私は、「生きてて偉い」という言葉が大嫌いだ。舐めてんのか、と思う。

でも、多分生きてて偉いのだ。

その言葉を受け入れるには未だ癪だが、恐らく受け入れなければ始まらない。

そして恐らく、自分に期待し過ぎないことが大事なのだ。自分はそんなにできるやつではなくて、頑張って頑張って生きているのだと。

 

私は、生きてて偉いのだと認めなくてはならない。