かちかが生きてる

日記を書くよ

2023.7.9 思い出補正はうざい

 

私は多感な十代の頃結構な鬱だったのだけれど、しかし世界は綺麗に見えていた気がする。

 

空の色が美しいだけで足を止めて見入ってしまうことがあったし、それが当たり前だったような気がする。

今住んでいる街もそこそこ綺麗な夕日が見れるのだけど、それに感動したことは一度もない。

 

私があんなに空に感動できたのは、「心を病んでいたから」なのか「若さゆえ」なのか、はたまた「心を病んでいたとしても、そこは輝かしい青春を過ごした場所だったから」なのか。

輝かしいかはわからない。部分的に楽しかった気がする。楽しさの瞬間風速が速くて、それに引き摺られている気がする。

 

思い出は美化されるものだというけれど、その中でも特に当時大変で大変でつらくて仕方なかったけれどやり遂げたことが一番美化されがちだ。苦労は後に残らなくて、栄光だけが今残る。「でも、何だかんだ楽しかったよね」とか言い出す。そうだったか?当時の私がそれを聞いたら怒らないか?

私は、べつに「あのとき頑張っていた自分」という思い出が自己肯定感には繋がらないので、そういうものは勝手に生えてきてくれればいいのに、と思う。