かちかが生きてる

日記を書くよ

2023.5.15 小川洋子が読めなくなった

 

小川洋子が、読めなくなった。

 

私は高校生の時からずっと小説家の小川洋子のことが大好きだ。家の本棚には「小川洋子ゾーン」が存在するくらい好きだ。好きな作家と聞かれればいつも小川洋子と答えたし、彼女の作品なら何でも読んだ。思えばエッセイの楽しさを知ったのも小川洋子のお陰だった。

 

そんな小川洋子好きの私が、読めなくなった。

 

原因はわかっている。

川内有緒さんの「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」という本を読んだからだ。

 

本著は題名通り、全盲の美術鑑賞家兼写真家の白鳥さんと各地のアートを見て回るエッセイだ。

目の見えない白鳥さんは、しかし、同行する人々がその美術品について語り、考え、意見や感想を述べる、それに耳を傾けることで「芸術鑑賞」を行う。その目で作品が見えなくとも、誰かの目を、脳を、口を通して出てきた言葉が輪郭となり、白鳥さんの目にも、確かに見えるものがある。

 

意訳だが、白鳥さんはこんなことを言っていた。

全盲でも何も特別なことはなくて、よくある話としては「目が見えない代わりに耳が良い」なんて偏見をよく聞く。俺はそれに当てはまらないし、でも耳が良い全盲人、鼻の良い全盲の人に会ったこともある。つまりは、自分たちだって目が見える皆と同じように、「たまに耳が良い人がいる」「たまに鼻が良い人がいる」だけに過ぎないんだ」

「みんな、見えないことを不幸なことだと思わけれど、自分はずっとずっと光のない世界で生きてきたから、それで不便だと思ったことは無いしこれが自分にとっての当たり前だ。健常者に近づくことだけを幸福だとは思わない」

 

全盲は何も特別なことではない。彼らにとってはそれが「普通」であり、「目が見えないのは大変でしょう」という思いやりも、「全盲だろうと人一倍努力して健常者に近づくということはいいことだ」という思想も、それらは一種の差別意識や優生思想である。

それは悪ではない。ただ、自分の中にもそういう心があるのだと、知り、認めなければならない。

 

 

そんな思考を得たのちに、私は小川洋子/堀江敏幸著「あなたは切手を、一枚貼るだけ」を読んだ。

 

「昨日、大きな決断をしました。まぶたをずっと、閉じたままでいることに決めたのです。」という書き出しを読んだ瞬間、おやっ、と、いやな予感がした。

読み進めて、予感は確信に変わった。私は、その本を読み進めることが出来なかった。

 

まぶたを閉じたままでいることを決めた。言うなれば後天的に自発的に、擬似的に全盲になる人間。それは「全盲」に神秘を感じ、憧憬する行為だった。見えないからこそ見えるもの、を求めて、非日常としての全盲に飛び込む行為。それは、ちょっと違うんじゃないの、と。

もう少し読み進めたら、そんなことはないのかもしれない。そもそも小説の内容。筆者の思想かと言えば全然そんなことはなち。小川洋子さんの作品は「本人は心の綺麗な人間だと思いながら生きているけど、人から見れば何だかいやなひと」もたくさん小説に登場するから、今回もそれかもしれない、と思う。

けれど、怖くてそれ以上読むことが出来なかった。もしかしたら、私は大好きな作家を嫌いになりたくなかったのかもしれない。「大好き」は、「大好き」のままで思い出になっていて欲しい。

私はその日から、小川洋子さんの本は読んでいない。

 

彼女の作品に、あらゆる全てを標本にして、預かっていてくれる店が登場する。思い出の曲、火事で負った火傷、昔に事故で欠けてしまった薬指。標本にすることで、有り体に言えば、依頼人たちは気持ちの整理を行う。手放すのではなく、捨てるのではなく、標本にする。

私にとっての「標本」は、小川洋子その人だった。

 

 

多分、小川洋子さんを嫌いになることはないだろう。読むことは、減るかもしれない。

これはきっと、誰が悪いでもなくて、私が「小川洋子の小説」のターゲットから外れてしまったのだ。ある日突然、予想だにしていない場所からの衝撃で。

ぽろっ、と平均台から落ちた私は、最近は昔好きだった児童小説なんかを読み返している。結局それも、懐かしいけれどあんまり面白くなくて、好きになれなかった。当時、子供からちょっとだけ大人になって、ターゲットから外れた小説たち。趣味嗜好、思想や考え方が一巡して、もう一回くらい、その矢の射られる先に私はいないかしら、と思ったのだけど、そんなことはなかったらしい。